2005/07/16 (土)
教授の座
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とうとう本格的な夏到来です。顔が真っ黒になりそうです。あまり、紫外線に当たらない方が良いのですが。
さて、今朝、私の親しくさせて頂いております一つ上の先輩が、ある大学病院の教授になられたと連絡がありました。自分のことのように喜んでいます。ここまでには紆余曲折があり、その苦労は一言では言い表せませんが。その先輩には母校の九歯大の教授になってほしかったとつくづく感じます。
それほど九歯大の教授選挙も助教授がすんなりと教授になれる時代ではなく、臨床主体ではなく業精(論文)主体の教授選考になる傾向にあります。しかし、講座の頭のすげ替えだけで、講座の運営が巧くいくとは限りません。ボタンのスイッチひとつで動くロボットではなく、心のある生の人間なのですから。人間には一日24時間しかないわけで、その時間をどれにあてるかで人生変わってしまいます。小・中・高等学校の先生もそうですが、子供達を親身になって面倒を見てくれる先生ほど業績は少なくなり、昇進も出来ないわけです。全く同じように、医科、歯科系ともに、臨床に励んでいる先生は当然、論文を書く時間も少なくなり、患者さんの好感度は上がっても、教授選挙での評価は下がってしまいます。両方できることに越したことはないのですが、それをやり遂げるには十分な体力と家族の理解が必要になってきます。
また、すべてではありませんが、業績で教授になった先生は往々にして机の上で論文作りに生活の大半を費やし、本来、人の病を治す仕事であるにもかかわらず、対人的には欠陥があることが多く、部下に良い人材があっても、人を引っ張っていくことができず、その教授の講座は衰退の一途をたどります。その衰退はもう止められ無いのが実情でしょう。
教授という地位にあぐらをかいて、講座を思いのままに操る夢を見て、年上であろうと頭を下げてくる環境に慣れてしまい、裸の王様と化した人間にだけはなってほしくないですね。
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